みなさん、こんにちは。吉野です。すっかり梅雨ですが、いかがお過ごしでしょうか?私は家庭菜園の野菜を収獲したり、ぬか床をつくったり、たい肥作りをしたり、日本酒を飲んだりと秋田らしい日々を満喫しています。仕事も大事ですが、損得は求めず、日常生活を楽しく過ごすことはとても大切ですね。前回のブログ記事にも書きましたが、FIREよりも大事なことはたくさんあるのです。ぬか床、うまくできるといいなぁ。アボカドをぬか床に漬けて食べると絶品らしい、ぬか床、楽しみです。
さて、ガラッと話題を変えます。秋田県と言えば、みなさん何を思い浮かべますか?人によっていろんなイメージがあると思います。メジャーな回答だと秋田美人、あきたこまちとかそんな感じかな?それと同じくらいイメージを持たれているのは「日本酒がおいしい県」というイメージです。
最近ですと、新政さんの活躍によってそのイメージをさらに確立させた感がありますね。私も新政さんのお酒は本当にたまーに頂きますが本当においしいです。もちろん、他の秋田の酒蔵のお酒のおいしいですよ~(^^) えー、ただの酒好きの感想ですが、米っぽくて艶っぽいお酒が多い。
ところがどっこい、実は、秋田は最初からおいしいお酒を作れていたわけではありません。秋田県に湯沢市という街があります。今も酒蔵さんがあって美味しいお酒をたくさん作っていて、美酒の秋田県にふさわしい街なのですが、、、明治時代はそうではなかったようだ。先人の努力があってそうなったのです。明治時代の湯沢市の酒造りはどうだったのか?以下、湯沢市役所さんのウェブサイトから。
そのころの湯沢の酒づくりの技術は低く、たくさんの酒をくさらせてしまうことがあったり、地元でしか販売しなかったりしたため、経営がうまくいかず酒屋をやめてしまう醸造元も出てきました。また、湯沢の酒は灘(兵庫県神戸市灘区)の酒と比べて品質が良くなかったので、一流の料理店や旅館では扱ってもらえなかったのです。
湯沢市役所ホームページから引用
今だと考えられないですね。秋田県民の私も知らなかった。やはり、今享受している文化の恵は先人のみなさまの努力があってこそのものなのだと実感します。そんな湯沢市の酒造りを変えるべく奮闘したのが伊藤忠吉さん!湯沢の銘酒・両関の娘婿さんだったそうな。当時からお酒造りの技術が優れていた兵庫の灘にお酒造りを学びに行って、何度も失敗を重ねて、湯沢の気候にあった「低温長期醸造法」を開発。その結果、湯沢のお酒造りのレベルが上がり、酒類品評会で賞をもらうまでになりました。
伊藤忠吉さんは自ら生み出した醸造法を秘密にすることなく、見学に来た人に惜しみなく伝授していった。今風に言えばオープンソース。その結果あって、秋田県だけでなく、東北地方の日本酒造りもどんどん盛んになっていったという。また、秋田営林局とも連携して、秋田杉の樽を使った香高い日本酒づくりも研究していたようです。
もし、この人がいなかったら、美酒の秋田というイメージはなかったかもしれない。やはり、郷土の歴史を学ぶことは大切だなぁ。先人に感謝しながら日本酒を楽しみましょうね。